百の試合に百の物語を編んで
佐瀬 稔
原田対ジョフレの試合は、三島由紀夫さんと一緒に見た。
三島さんは午後3時ごろに起きて来客との応対や所用をすませ、夜、机に向かって朝まで執筆する。「名古屋に行ったら、仕事ができない」とおっしゃるのを「試合後、ホテルでなさったらいかがですか」と頼み込み、当時、筆者がつとめていたスポーツ新聞への観戦記をお願いしたのだ。その夜、三島さんは「ときしも五月。五月人形みたいな、金太郎みたいな原田が勝った」で始まる原稿を、いつものとおり、どの記者よりも早くサラサラと美しい筆で書きあげたが、結局それ以外にはただの一行も書けずに終わった。
ホテルに引きあげたあと、人間の心とは、日本の文化とは、を語り続けて朝にいたったからである。ボクシングのいい試合を見ると、あれほどの人でもそういうことになってしまう。
昭和45年の秋、今度は12月3日に行なわれる小林弘対西成正三の試合の観戦記をお願いした。
小林はJ・ライト級、西城はフェザー級の現役世界チャンピオン。三島さんは西城というボクサーがお気に入りのようだった。にもかかわらず「先約があります。残念ながら見にいけません」という。45年11月25日、その「先約」が何であったかをテレビの臨時ニュースで知って、茫然とした。
それゆえに、二人のテクニシアンが攻防の秘術を尽して戦い、2−1のきわどいスプリット・デシジョンで小林が勝った試合(昭和45年12月3日両国日大講堂)が忘れられない。ボクシング名勝負五番を選べ、とは、思えばおそろしい無理難題である。私事になるが、五つの勝負を選び出すのに、実はまるまる1週間をかけた。百の試合を見れば百の思いが残る。千試合なら千の残照だ。どれを切って何を捨てるか、残念ながらその種の思い切りのよさは何歳になっても身につかない。
それどころか、馬齢を重ねれば重ねるほど、心は拳闘家たちの周辺をオロオロとさまよい歩くだけである。昔、父のない家に育ったハード・パンチャーがいた。
当れば必ず倒すのに、ときに止めの一撃を打てぬまま、期待はずれの試合をすることがある。
彼はのちに語った。「母子家庭の子は、気弱に育つ。自分が味わった痛みゆえに、相手の痛みを知ってしまうのだ」
引退後、ジムの経営者となり、強打のタイトル・コンテンダーを育てあげたが、その弟子は彼もまた母子家庭の子で、打つべき時にうてず、チャンスを逃したのだった。
できれば、強打者の弟子がつらい敗北を喫したあの試合を「名拳譜」の一つに加えたい。
やはり昔、バンタム級に左のショート・フックの使い手がいた。そのボクサーの生涯最高の傑作も加えたかった。目の前で見たことで、大袈裟でも誇張でもないのだが、後ろ向きのボクサーの肩がほんのわずか震え、すれ違ったと見えた次の瞬間、相手はひと太刀で斬り倒され、気を失っていた。
あれほど凄いノック・アウト・シーンは、ざらにあるものではない。やがて彼は、理由も告げずにリングを去る。あとで、自分の左が何を引き起すか、それが恐ろしくなってグラブを捨てた、と聞いた。彼もまた、心優しいリングの達人だった。人気絶頂のころ、かわいい娘と結婚したボクサーがいた。娘はボクシングを見たことがなく、妻となったのちも夫の試合を見ようとしなかった。見ないだけでなく「早くボクシングをやめて」といい続けてやまなかった。
夫は「もう1試合だけ、後1試合して引退する」といいつつ、あっという間に下り坂にかかり、やがて、学生時代、KOキングとうたわれた有望新人のプロ入第1戦の相手をつとめる。
彼は、第1ラウンドから最終ラウンドまで、打たれに打たれながらついにダウンすることなく、耐え抜いた。なおもボクシングに執着し続ける男に、妻はこころなえてフィリピン遠征中に、自ら命を絶った。恋女房を家に置き、男の誇りを貫いたあの試合を、どうして外すことができようか・・・。
選ばれた「名勝負ベスト20を見て」おそらく、日本中から「異議あり」の声があがることだろう。百人のボクシング観察者がいたら、まちがいなく、百通りのベスト20を作る。
百人に百の人生があるならば、そういうことになってしまう。たとえば、筆者自身は西城正三の試合がリスト・アップされなかったことに「異議あり」と手をあげる。
短い全盛のころ、彼が放った右ストレートのなんと冴えていたことか。
その右ストレートに、ある日突如として狂いが発生し、迷いに迷いつつ戦ったいくつかの試合も、格別に美しいものだった。さらにいえば、自分で選んだ五番勝負に、自分で異議を唱えている。
選んだ後で、大事な人を裏切った、この人を、あの人も、とうしろめたさにさいなまれている。
いい出したらきりがない。ボクシング好きは百の試合に百の物語を編んでポケットにしまい込み、夜ごと、小走りにボクシング場に急ぐのだ。三島由紀夫さんは「金太郎」の誕生を語って貴重な一夜を棒に振った。振らせた罪滅ぼしに、せめて次の文章を読むことにする。
シュガー・ラモス対関光徳の世界フェザー級タイトル・マッチ(昭和39年3月1日、ラモスの6回TKO勝ち)にいただいた最後の原稿の一説。「狂言の『釣狐』ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛込むことで、彼自身が狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであろう」
狐にもなれぬ懦夫は、罠の周りを百遍回って百の物語を、か細い声で綿々と語り続けるだけである。
※著者 佐瀬 稔(故人) スポーツジャーナリスト、
代表作『ボクシング・マガジン』に連載された「感情的ボクシング論」
「百の試合に百の物語を編んで」雑誌「Number」1990.7より