ビックリハウス本館のバックグラウンドに石焼芋の音声を付けたんだけど、ページを開くたびに「いも〜」とうるさいです。
しかも、今日電話がかかってきたのでその場でとったところ、ちょうど「いも〜」という音声が流れて相手の方に聞えてしまったみたいです。
うるさいし、何の意味もないという事にそろそろ気がつきはじめました。
話は変って、今日久しぶりに苑子の日記を見たら
>今迄携帯の電源はずっと切っておくもんだと勘違いしてた・・
>だからこれからはずっと電源つけてる
と書いてありました。
「今迄携帯の電源はずっと切っておくもんだと勘違いしてた・・」
どういう勘違いなんでしょうか?
小学生の娘が行方不明になりました。どんな些細なことでもいい、
手がかりが欲しい母のblogです。
という事だそうですので、こちらに紹介しておきます。
「小学5年生11歳の娘が3/16から行方不明になっています。
平成17年3月16日水曜日、夕方、仙台駅前LOFT近くで友人と別れたあと、自宅に戻っていません。」
という事だそうです。
追記:3.29
行方不明だった娘は帰ってきたようです。
「アロハ」というのは「こんにちは」の意味だが、「さよなら」の意味もあるのだそうである。
「さよなら」と「こんにちは」が、同じことばだというのは、なんという美しいことだろう。
ぼくは、人と逢うたびに「アロハ」と手をふる南の島の人たちのことを思いうかべないわけにはいかなかった。
書物をひらくと、インドの「ナマステ」もまた「アロハ」と同じように、「こんにちは」であり「さよなら」でもある。
アフリカでは「さよなら」と「こんにちは」を区別する国など、どこにもないのだそうである。
では、日本語ではなぜ「さよなら」と「こんにちは」をきびしく区別するのだろうか?
「こんにちは」ということばは現実のことばだが、「さよなら」は希望のことばだ、と教えてくれたのはぼくの中学時代の歴史の先生だった。
先生は、スペインの市民戦争の話をしてくれるので、ぼくたちはいつも放課後も先生のまわりに残っていたものだ。
先生は、もう決して若くはなく、その本箱には二、三冊のスペイン語の辞書とギリシア神話の本があるばかりだった。
「こんにちは」は、いつでも確実な約束であり、健康であり、生産的である。だが、「こんにちは」はいつでも目の前の現実であって夢ではないのだよ──と先生は言った。
ところが、「さよなら」はなぜだか現実ではない。人はだれでも「さよなら」と言うときに、希望をいだく。だが、「希望は人類の最後の病気だ」ということも知らないで。
──なぜですか?
とぼくは先生に尋ねたことがある。
──なぜ、希望は人類の最後の病気なのですか?希望こそ「おはよう」であり、人類にとって、もっとも確実な約束ではないのですか?
と。すると、先生は目を細めて、眼鏡の曇りを拭きながら、
──君は「パンドラの筐」の話を知らないのだね?
と言った。
そして、あのプロメテウスの義理の妹の、世にも美しいパンドラの話を聞かせてくれたのだ。
パンドラとエピメテウスとは結婚した。二人はとても幸福だった。
エピメテウスはギリシア語で「後から考える者」というのだが、その名のとおりにすこし血のめぐりのわるい実直な男で、パンドラは肉体美の、妖しい妻であった。
二人の家には、兄のプロメテウスが残していった筐がひとつあった。筐は黄金で出来たものだったが、中に入っていたのはすべて病気であり、憎しみ、悪巧み、戦争、妬み、嘘、といったものばかりであった。
プロメテウスはこれらの病気が人間のあいだに流行しないように、一つの筐の中に封じこめてしまったのだが、それでも不安だったので出かけるときに、「なにがあっても、決してこの筐だけはあけないように」と言い残したのだった。
しかし、パンドラは筐の美しさに心を奪われて、プロメテウスがもしかして宝をかくしていて、それを頭の弱いエピメテウスに守らせるために、勝手な嘘をついたのではないかと思い、あけてしまった。
すると、あけた蓋のあいだから、病気、憎しみ、盗みなどの、ありとあらゆる悪と病気がとび出して、人間の世界にとび散ってしまったのである。びっくりしたパンドラは、いそいで蓋をしめた。
すると、中から弱々しい声で、「わたしも外に出してください」という声が聞こえた。
パンドラは訊いた。
「おまえはいったい、だれ?」
すると筐の中から声が答えた。
「私は希望です」
──人類の最後の病気である希望が、この世の病のつぐないとして閉じこめられてあったのか、それとも希望もまた悪の一つに過ぎないのかは、だれも知ることは出来ないのだろう。
と先生は言った。
だが、人はだれでも「さよなら」を言うときには希望をいだく。
たとえそれが人類最後の病気だとしても、「こんにちは」にはないはか
ない望みについて、ぼくはときどき考えないわけにはいかないのである・・・・・・。
寺山修司の言葉より
2ちゃんねるのネタで「ふいんき←なぜか変換できない」というのがある。
これは雰囲気を「ふいんき」と読み間違える人が結構いてそれをネタにしたものだが、さらに一歩進んで「ふいんき」を無理矢理「不陰気」と変換して「雰囲気」の意味で使っている人たちがいる。
「不陰気」(Googleの検索結果)
その数16100件。
その中の何割かは「こういった間違った使い方をしています」という指摘をしているものだが、その他の大半は本気で「雰囲気」を「不陰気」と書いている。
「ふいんき」を無理矢理変換するとそうなるのだろう。
ま、自分も記憶だけで「ふんいき」という漢字を書けと言われても書けないんだけど。
しかも、中学生くらいまで「ふいんき」といっていたような気がなんとなくしないでもない。
この事について、わりと詳しく書いてあるサイトを見つけました。
誤字等の館:ふいんき
石川豚木は歌人で、そのペンネームから察するところ金沢付近に住んでいて「養豚業」と「山林業」のような仕事をしながら短歌を作っていたと思われる。
有名な歌に
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ
というのがある。
この意味だが前半「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」の部分はそのままで問題ない。
「花を買い来て妻としたしむ」これが問題である。
当時の言葉でいう「花」とは「テーブルチャージ」みたいなもので、「花をつける」とか「花を買う」とかいうのは芸者遊びに金を払うことである。
実は豚木は生活苦のため妻を芸者に出しているのである。
だから「友がみなわれよりえらく見ゆる日」に「妻としたしむ」ために妻である「芸者」の「花代」を払わなければならなかった。
つまり自分の妻と「やる」ために「花代」を払わなければならないという我身の不甲斐なさを歌った歌なのである。
この歌はそもそもは
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻とした
という歌だったと思われるが少し露骨な感じがするため、最後のところに二文字を付け加え「したしむ」としたものと思われる。
※三省堂提供「大辞林 第二版」より
はなだい 0 2 【花代】
芸者・娼妓などの揚げ代。線香代。玉代(ぎよくだい)。はな。
レストランにて
カップルが座っているテーブルにウェーターが料理を持ってきた。
「鈴木でございます」とウェーターが言った。
カップルの男の方が「久保田でございます」、
女の方が「細谷でございます」と言った。
ウェーターは、背中が小刻みに震えながら、
「本日のお勧めの魚のスズキでございます」と説明していた。
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