2005年03月23日
「アロハ」というのは「こんにちは」の意味だが、「さよなら」の意味もあるのだそうである。
「さよなら」と「こんにちは」が、同じことばだというのは、なんという美しいことだろう。
ぼくは、人と逢うたびに「アロハ」と手をふる南の島の人たちのことを思いうかべないわけにはいかなかった。
書物をひらくと、インドの「ナマステ」もまた「アロハ」と同じように、「こんにちは」であり「さよなら」でもある。
アフリカでは「さよなら」と「こんにちは」を区別する国など、どこにもないのだそうである。
では、日本語ではなぜ「さよなら」と「こんにちは」をきびしく区別するのだろうか?
「こんにちは」ということばは現実のことばだが、「さよなら」は希望のことばだ、と教えてくれたのはぼくの中学時代の歴史の先生だった。
先生は、スペインの市民戦争の話をしてくれるので、ぼくたちはいつも放課後も先生のまわりに残っていたものだ。
先生は、もう決して若くはなく、その本箱には二、三冊のスペイン語の辞書とギリシア神話の本があるばかりだった。
「こんにちは」は、いつでも確実な約束であり、健康であり、生産的である。だが、「こんにちは」はいつでも目の前の現実であって夢ではないのだよ と先生は言った。
ところが、「さよなら」はなぜだか現実ではない。人はだれでも「さよなら」と言うときに、希望をいだく。 だが、「希望は人類の最後の病気だ」ということも知らないで。
なぜですか?
とぼくは先生に尋ねたことがある。
なぜ、希望は人類の最後の病気なのですか?希望こそ「おはよう」であり、人類にとって、もっとも確実な約束ではないのですか?
と。すると、先生は目を細めて、眼鏡の曇りを拭きながら、
君は「パンドラの筐」の話を知らないのだね?
と言った。
そして、あのプロメテウスの義理の妹の、世にも美しいパンドラの話を聞かせてくれたのだ。
パンドラとエピメテウスとは結婚した。二人はとても幸福だった。
エピメテウスはギリシア語で「後から考える者」というのだが、その名のとおりにすこし血のめぐりのわるい実直な男で、パンドラは肉体美の、妖しい妻であった。
二人の家には、兄のプロメテウスが残していった筐がひとつあった。筐は黄金で出来たものだったが、中に入っていたのはすべて病気であり、憎しみ、悪巧み、戦争、妬み、嘘、といったものばかりであった。
プロメテウスはこれらの病気が人間のあいだに流行しないように、一つの筐の中に封じこめてしまったのだが、それでも不安だったので出かけるときに、「なにがあっても、決してこの筐だけはあけないように」と言い残したのだった。
しかし、パンドラは筐の美しさに心を奪われて、プロメテウスがもしかして宝をかくしていて、それを頭の弱いエピメテウスに守らせるために、勝手な嘘をついたのではないかと思い、あけてしまった。
すると、あけた蓋のあいだから、病気、憎しみ、盗みなどの、ありとあらゆる悪と病気がとび出して、人間の世界にとび散ってしまったのである。びっくりしたパンドラは、いそいで蓋をしめた。
すると、中から弱々しい声で、「わたしも外に出してください」という声が聞こえた。
パンドラは訊いた。
「おまえはいったい、だれ?」
すると筐の中から声が答えた。
「私は希望です」
人類の最後の病気である希望が、この世の病のつぐないとして閉じこめられてあったのか、それとも希望もまた悪の一つに過ぎないのかは、だれも知ることは出来ないのだろう。
と先生は言った。
だが、人はだれでも「さよなら」を言うときには希望をいだく。
たとえそれが人類最後の病気だとしても、「こんにちは」にはないはか
ない望みについて、ぼくはときどき考えないわけにはいかないのである・・・・・・。
寺山修司の言葉より
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こんばんは。
そういえば私は「さよなら」はあまり使いませんね。
『続かない』感じがするのかも。
友達とは大抵、「じゃあまたね」で別れます。
昔英語の「Good-by」は本来「God-by」だったと
聞いたことがあります。(真偽は不明ですが)
『あなたに神のご加護がありますように』ですね。
ああ、別れてもひとりぼっちじゃないんだなと、
ちょっと羨ましい気がしました。
別れの言葉の何気ない切なさは好きですが。
コメントありがとうございました。
「God-by」だったんですか、知りませんでした。